2012.12.02 Sunday
海は無事である
兵庫県立大学自然・環境科学研究所開設20周年記念シンポジウムで哲学者内山節氏の基調講演を聴きました。
********** 以下そのお話の内容の抜粋 **********
3.11の津波は100年に一度の自然の営みとすれば、自然にとっては災害ではない。津波直後は生命が消えたが、4ヵ月後には海は今までよりもはるかに良くなっている(台風は海の表面しか掃除をしないが、津波は海底まで掃除をする)。欧米では社会というと生きている人間だけで作られた社会を言うが、日本では自然と人間とで作られているものを社会と呼んできた。三陸は壊滅していない。海は無事である。そういったことが三陸の漁師の人から声が上がってきた。海と共に生きてきた、人の感覚が自然が無事であると言わせたのであろう。
自然というものの捉え方が変わってきた。都市の人間が自然と関係を結ぶにはどうしたら良いか。「自然と人間が共存する」とは個人ではなく、社会として作る必要がある。原発を動かして生活していくことが「自然と人間の共生」なのか。
日本では明治時代まで自然界と人間界を分けようという考えはなかった。「信仰」と「宗教」もなく、自然と共に生きようとしていた。自然の意味をどこまで広げるか、どのように掴み直すか、ローカルな世界の中で自然とどう関わっていけば良いか、これまでの歴史を見直し、どういう自然と人間との関係を作っていくかが必要である。
********** 以上 **********
もう一度内山節著「文明の災禍」(新潮新書)を読み直そうと思っています。
********** 以下そのお話の内容の抜粋 **********
3.11の津波は100年に一度の自然の営みとすれば、自然にとっては災害ではない。津波直後は生命が消えたが、4ヵ月後には海は今までよりもはるかに良くなっている(台風は海の表面しか掃除をしないが、津波は海底まで掃除をする)。欧米では社会というと生きている人間だけで作られた社会を言うが、日本では自然と人間とで作られているものを社会と呼んできた。三陸は壊滅していない。海は無事である。そういったことが三陸の漁師の人から声が上がってきた。海と共に生きてきた、人の感覚が自然が無事であると言わせたのであろう。
自然というものの捉え方が変わってきた。都市の人間が自然と関係を結ぶにはどうしたら良いか。「自然と人間が共存する」とは個人ではなく、社会として作る必要がある。原発を動かして生活していくことが「自然と人間の共生」なのか。
日本では明治時代まで自然界と人間界を分けようという考えはなかった。「信仰」と「宗教」もなく、自然と共に生きようとしていた。自然の意味をどこまで広げるか、どのように掴み直すか、ローカルな世界の中で自然とどう関わっていけば良いか、これまでの歴史を見直し、どういう自然と人間との関係を作っていくかが必要である。
********** 以上 **********
もう一度内山節著「文明の災禍」(新潮新書)を読み直そうと思っています。